ひらめきの極意は…
2018/04/19
先日、NHKスペシャル「人体」という番組で脳の特集がありました。
その時にある大学の教授が”ひらめき”の極意は「ぼーっと」することだと。
脳科学ではこれを「デフォルト・モード・ネットワーク」と言い、
脳の広い領域が活性し、記憶の断片を繋ぎ合わせるようなことを無意識に行っいる。
そのような状態の時に、思わぬ”ひらめき”が生み出されるのではないかと…
そんなことが脳科学的に証明され、近年注目されているとの内容でした。
しかし、そのような考え方は決して近年わかったことではなく、
昔から賢人達は知っていたのだと思います。
例えば「座禅」
これはまさにデフォルト・モード・ネットワークではないでしょうか。
また森 政弘 著「退歩を学べ」という本でも、
「念・忘・解(ねんぼうかい)」という考え方が紹介されています。
念とは、一つのことを念ずるくらい考え続ける。そして一度そこから離れ、表層心理では忘れる。しかし深層心理では、はちきれんばかりに問題意識が成熟し、そしてある時何かをきっかけにはじけるようにひらめき、解ける。という考え方。
他にも岡 潔 著の「春宵十話」でも、同じようなことが書かれています。
考え続けるが、全くわからないような状態がつづいていて、その後、眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと。これが発見にとって大切なことだったに違いない。
種子を土にまけば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてから、かなり間を置かなければ立派に成熟することはできないのだと思う。と大発見の後に振り返ってこう綴っています。
この一度「眠る」「眠らせる」という過程が、意識の下層で考えを成熟させるのに必要なことだと、時代や国が違えど、同じようなことを賢人たちは言っています。
さて自分に翻って考えた時、頭でわかっていても、これを行ずることはとても難しいですね。なにかひらめくには、愛を持って、相当そのことについて考え、念ずるほどの思いがあってこその「眠り」でなければ、私のように中途半端な思考の上で眠ってばかりでは、当然なーんにもひらめかないのですが…笑。